文・三浦芳春(三浦一族研究会幹事・三浦一族城郭保存活用会理事)
衣笠合戦とは
衣笠合戦は、源頼朝が打倒平家の兵を挙げた治承4年(1180年8月)、頼朝に呼応した伝説の英雄三浦義明が、衣笠城で畠山重忠を代表とする平氏軍と戦い、壮絶な最後を遂げた戦いです。
この絵図は、衣笠合戦の配陣を「吾妻鏡」の記述により描いたものと思われ、江戸時代後期のものとされています。
畠山重忠らの来襲を聞いた三浦一族は衣笠城に籠り、それぞれ陣を敷きました。
東ノ木戸(大手):三浦義澄と佐原義連
西ノ木戸(搦め手):和田義盛と金田頼次
中の陣:長江義景・大多和義久
そして、棟梁の三浦義明は、津久井義行・多々良義春らを従え、本丸で総指揮に当たりました。
8月26日の辰の刻(午前8時)、畠山重忠・川越重頼・江戸重長・金子十郎家忠ら村山党の連合軍以下数千騎が攻め寄せました。
大手口:川越重頼・江戸重長・金子重忠ら村山党
搦め手:畠山重忠
金子十郎家忠の奮戦
衣笠合戦の平家方の軍勢は、畠山重忠の他に川越重頼・江戸重長が有名ですが、金子十郎家忠(以下金子家忠)の奮戦は特筆すべきものがありました。
寄せ手の先陣を取った武蔵の一党は、多くが三浦の兵の矢に倒れ、後退しました。
代わって、家忠は一門を引き連れて打ち寄せると、またも城中の兵はいっせいに矢を放ちました。しかし家忠は一歩も退かず、太刀を振りかざし、一ノ木戸口を打ち破り、さらに二ノ木戸まで進んだのです。
城兵はこれを見てさんざんに矢を放ち、家忠の鎧・かぶとには、21本の矢が刺さったといいます。それでも屈せず退くことをしない金子家忠の姿に、敵味方双方とも驚いたといいます。
大将の三浦義明はこれに感激し、家忠に使いを立て、慰労の酒を贈ったとのです。
酒を飲んで元気を取り戻した家忠は、かぶとの緒をしめ直し、従者を付けずに一騎で攻め上がりました。もとより家忠は、死ぬ覚悟でこの戦に臨んでいたのです。
三浦義明は、家忠の豪勇ぶりを称賛しましたが、そのとき、弓の名人と言われた和田義盛の矢が、家忠の胴巻の板を射抜き、さらに鎧の胸板を射抜くに至って、さすがの家忠もたまらず倒れました。家忠の首が斬られようとする寸前、家忠の弟近範が駆け寄り、家忠を肩にかけて木戸口から退却しました。近範は追いかけてきた兵士を討ち取り、その首を手に陣地に引き返したのです。
その後、平氏勢は力を盛り返し、劣勢とみた三浦軍は、大将の三浦義明は一族全員を衣笠城から脱出させ、自分ひとり残って壮絶な最後を遂げたのでした。
なお、家忠の傷は浅く、やがて回復して頼朝軍に合流します。

21本の矢を受けて仁王立ちする家忠(江戸時代、画:菊池容斎)
金子氏とは
金子氏は、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、武蔵国の狭山丘陵の周辺に本拠を置いた、桓武天皇の流れをくむ武蔵七党と呼ばれた名族の中のひとつで、村山氏の傍流とされています。
現在埼玉県入間市、かつての入間郡金子郷に居を構えた、金子家範という人が金子氏の祖です。金子十郎家忠は、家範の息子で、衣笠合戦の24年前、頼朝の父の源義朝に従い、保元の乱で初陣を飾りました。家忠、19才の時です。
3年後の平治の乱でも、家忠は源氏側について活躍しましたが、平清盛に敗れ、近江国まで下ります。このとき源義朝に従っていたのは、金子家忠ら二十余人でしたが、義朝の命令に従って、それぞれ関東へ落ちていきました。
彼らは、波多野義道・三浦義澄・齋藤実盛・熊谷直実・足立遠元・上総広常ら、そうそうたる武士で、その後、三浦義澄や足立遠元は、鎌倉殿13人のメンバーになりました。
金子一族はその後、日本各地に所領を得て繁栄し、小田原北条氏や豊臣秀吉に仕えるなど、名族として活躍しました。
金子十郎家忠陣屋跡
衣笠合戦の史跡はほとんど残っていませんが、衣笠城の近くには唯一、金子十郎家忠の陣屋跡とする史跡があります。

横浜横須賀道路の衣笠インターの近くの三崎街道を南に500mほど行った、コンビニの敷地の片隅に、陣屋跡の存在を示す小さな石碑があります。普通は、気が付かずに通り過ぎてしまうような碑です。
石碑には、「従是西百六十● 金子十郎家忠陣屋跡」と記されているのが読み取れます。
- は欠けていますが、間(けん)と思われ、1間≒1.8mなので、百六十間は、約300mです。
陣屋跡は、この石碑の西側の山の中ということになります。

なお、この碑の近くにあるバス停は「金子(かなご)」であり、金子家忠に由来すると思われる地名が、バス停として残っています。
陣屋跡は、新興住宅街の一角にあり、宅地一戸分のスペースを占めています。
この陣屋跡が作られた経緯は以下です。
明治期、正二位子爵まで出世した金子堅太郎という政治家がいました。堅太郎は、自分の先祖は金子十郎家忠だとし、昭和2年1月、衣笠合戦の家忠の陣屋跡を調査にきました。
山の中を歩き回り、旧跡を検分し、場所を特定しました。「金子十郎家忠陣屋跡」の碑は、金子堅太郎の書で、昭和7年に金子同族会が建立したものです。
その後、陣屋跡があった一帯は宅地開発のために整地され、昭和の終わりころ、現在の場所に移動することになりました。その際、金子同族会によって新たな碑も追加され、現在に至っています。

ところで、写真の中に、「金子坂山中」とありますが、この金子坂とは、衣笠合戦の前の夜に城攻めのために家忠が突貫で作った道で、家忠はこの道を使って攻め上がったと言われています。
この金子坂が現在のどこに当たるのかは定かではありませんが、少なくとも昭和の初期までは、その坂道が存在していたものと思われます。

金子堅太郎の書による石碑がこれです。「正二位勲一等子爵金子堅太郎」とあります。
さらに、移設の際に家忠の顕彰事業として追加した石碑がこれです。
赤丸の部分を拡大すると蜻蛉が刻まれています。

顕彰碑には、金子氏の家紋のひとつである「対蜻蛉(ついとんぼ)」が刻まれています。
とんぼは勇ましい虫とされ、戦国時代には好んで家紋に使われたようです。
また、移設時に追加で設置された陣地跡に関する説明碑がこちら。

文章を見ると、「保元の乱(1156)には、源頼朝の・・・・」となっています。保元の乱のときには頼朝はまだ子供であり歴史には登場していません。つまり、説明文の1行目と9行目の間の1行がそっくり抜けていると推定されます。
三浦一族と同様、平安末期から鎌倉時代、戦国時代を通して重要な役割を果たした名族の金子氏の伝説が、三浦半島の衣笠の片隅にひっそりと残されていることに、感動を覚えずにはいられません。
ぜひ、足を運んでみてください。
なお、金子十郎家忠の墓は、入間市木蓮寺の瑞泉院にあります。
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