三浦一族城郭保存活用会立ち上げの御挨拶

令和2年3月に「三浦一族城郭保存活用会」を立ち上げました。
三浦一族の素晴らしい歴史を城を通して知っていただこうという想いから結成に至りました。
歴史の楽しさを伝えながら、地域の財産である「城」を大事に保存し、活用して地域を盛り上げたいと思っております。

今後は三浦半島はもとより、各地に飛び出して大活躍した全国の三浦氏ゆかりの城を視野に入れながら活動を広げていきたいと考えています。
三浦一族の素晴らしさを地元の方はもちろん、さらには全国に向けてアピールしていきたいです。
これらの活動が三浦氏へのさらなる顕彰になれば幸いに存じます。

 

会長 宇野睦(山城ガールむつみ)

連絡・問い合わせ先
rekitoki@rekitoki.com

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三浦氏の家紋「三引両」

2022年12月30日 (金)

三浦一族「新井城」の御城印発行

三浦一族の戦国時代の本城、新井城の御城印が完成しました。
新井城があった油壺は、小網代の森やマリンパーク(現在は閉園)として市民の憩いの場でしたが、城や歴史はほぼ忘れ去られているという状況にありました。
現在も主郭周辺は東京大学の関連施設のため、立ち入り不可です。
それでも、現地に行けば地形から城を感じられますし、主郭周辺に入らなくても圧巻の土塁や空堀を楽しむことができます。
さらに、三浦道寸の墓がある高台は中世の櫓台が良好に残り、神奈川県を代表する城と言っても過言ではありません。

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【新井城のご説明】神奈川県三浦市

新井城は三浦半島の西側、小網代湾と油壺湾の間に突き出た半島状の岬を利用して築かれました。標高26mの城山の南北には湾が入り込み、海に囲まれた自然地形を活かした堅固な要害となっています。

現在、東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所の敷地になっている付近が主郭にあたるとされ、その周囲には櫓台、空堀、土塁などの遺構が良好に残っています。実験所の敷地には普段は自由に立ち入ることができないものの、敷地の外からでも空堀と土塁を見ることができます。さらには、城の北側に祀られている三浦道寸の墓は櫓台を利用して建てられていて、周囲には堀切や土橋状の通路が良好に残っています。

新井城は戦国時代に三浦道寸、義意父子が伊勢宗瑞(北条早雲)と壮絶な戦いを繰り広げた三浦氏の本城です。

享徳の乱(1454年)以降、関東が戦国時代に入ると、室町幕府の命を受けた宗瑞が関東に下向しました。やがて、宗瑞は関東管領上杉氏らと対立し、独自の軍事路線を展開していきます。一方、三浦氏はおもに扇谷上杉氏に属し、小田原大森氏、上総武田氏らと姻戚関係を結びながら勢力を広げていきました。そのような状況下で、宗瑞は大森氏の居城小田原城を奪い、そこを足がかりに相模国へと進出しました。

そして、ついに宗瑞は永正9年(1512年)8月、三浦道寸の岡崎城(平塚市・伊勢原市)を攻撃します。岡崎城は落城し、道寸は住吉城(逗子市)を経て、義意の守る新井城まで退きました。新井城を宗瑞の軍勢が攻め囲み、三年に及ぶ籠城戦になりました。永正13年(1516年)7月11日、援軍の望みも絶たれた三浦勢は討って出ましたが、奮戦するも敵わず、三浦一族は最期の時を迎えました。道寸、義意父子は自害したとも壮絶な討ち死にを遂げたとも伝わります。

【御城印のご説明】

新井城の御城印には三浦一族の家紋「三つ引き両」、そして三浦氏のお家芸ともされる笠懸を描きました。毎年4月には道寸祭りとして新井浜で笠懸が開催されています。

当時の城の様子が想像できる地形図をモチーフにしました。新井城には防衛のため、「内引橋」と「外引橋」が設けられていたと伝わっています。内引橋は横堀海岸付近の岬のくびれた台地上に、外引橋は現在の「引橋」という交差点付近に掛けられていたと考えられています。外引橋付近には宗瑞の軍勢が陣を敷いたと伝わる「陣場」という地名が残っています。あわせて、新井城は三方を海に囲まれた海城であることから、海に浮かぶ船を描き、三浦一族の水軍拠点である湊をイメージしました。

 

販売場所
※両販売場所とも1月17日から販売開始となります。

・CoolClanURAGA

〒239-0822神奈川県横須賀市浦賀1-8-3

℡ 046-845-9530

販売時間:11:00-21:00 定休日:水曜

 

・横須賀市観光案内所

〒238-0007 神奈川県横須賀市若松町2-25
(京急線横須賀中央駅東口改札前)


℡ 046-822-8301

販売時間: 9:30~17:00
※12月31日から1月4日まで休み

2022年1月 4日 (火)

衣笠合戦と金子十郎家忠

文・三浦芳春(三浦一族研究会幹事・三浦一族城郭保存活用会理事)

衣笠合戦とは

衣笠合戦は、源頼朝が打倒平家の兵を挙げた治承4年(1180年8月)、頼朝に呼応した伝説の英雄三浦義明が、衣笠城で畠山重忠を代表とする平氏軍と戦い、壮絶な最後を遂げた戦いです。

 

この絵図は、衣笠合戦の配陣を「吾妻鏡」の記述により描いたものと思われ、江戸時代後期のものとされています。

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畠山重忠らの来襲を聞いた三浦一族は衣笠城に籠り、それぞれ陣を敷きました。

東ノ木戸(大手):三浦義澄と佐原義連

西ノ木戸(搦め手):和田義盛と金田頼次

中の陣:長江義景・大多和義久

そして、棟梁の三浦義明は、津久井義行・多々良義春らを従え、本丸で総指揮に当たりました。

 

8月26日の辰の刻(午前8時)、畠山重忠・川越重頼・江戸重長・金子十郎家忠ら村山党の連合軍以下数千騎が攻め寄せました。

大手口:川越重頼・江戸重長・金子重忠ら村山党

搦め手:畠山重忠

 

 

金子十郎家忠の奮戦

衣笠合戦の平家方の軍勢は、畠山重忠の他に川越重頼・江戸重長が有名ですが、金子十郎家忠(以下金子家忠)の奮戦は特筆すべきものがありました。

寄せ手の先陣を取った武蔵の一党は、多くが三浦の兵の矢に倒れ、後退しました。

代わって、家忠は一門を引き連れて打ち寄せると、またも城中の兵はいっせいに矢を放ちました。しかし家忠は一歩も退かず、太刀を振りかざし、一ノ木戸口を打ち破り、さらに二ノ木戸まで進んだのです。

城兵はこれを見てさんざんに矢を放ち、家忠の鎧・かぶとには、21本の矢が刺さったといいます。それでも屈せず退くことをしない金子家忠の姿に、敵味方双方とも驚いたといいます。

大将の三浦義明はこれに感激し、家忠に使いを立て、慰労の酒を贈ったとのです。

酒を飲んで元気を取り戻した家忠は、かぶとの緒をしめ直し、従者を付けずに一騎で攻め上がりました。もとより家忠は、死ぬ覚悟でこの戦に臨んでいたのです。

 

三浦義明は、家忠の豪勇ぶりを称賛しましたが、そのとき、弓の名人と言われた和田義盛の矢が、家忠の胴巻の板を射抜き、さらに鎧の胸板を射抜くに至って、さすがの家忠もたまらず倒れました。家忠の首が斬られようとする寸前、家忠の弟近範が駆け寄り、家忠を肩にかけて木戸口から退却しました。近範は追いかけてきた兵士を討ち取り、その首を手に陣地に引き返したのです。

 

その後、平氏勢は力を盛り返し、劣勢とみた三浦軍は、大将の三浦義明は一族全員を衣笠城から脱出させ、自分ひとり残って壮絶な最後を遂げたのでした。

なお、家忠の傷は浅く、やがて回復して頼朝軍に合流します。



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21本の矢を受けて仁王立ちする家忠(江戸時代、画:菊池容斎)




金子氏とは

金子氏は、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、武蔵国の狭山丘陵の周辺に本拠を置いた、桓武天皇の流れをくむ武蔵七党と呼ばれた名族の中のひとつで、村山氏の傍流とされています。

現在埼玉県入間市、かつての入間郡金子郷に居を構えた、金子家範という人が金子氏の祖です。金子十郎家忠は、家範の息子で、衣笠合戦の24年前、頼朝の父の源義朝に従い、保元の乱で初陣を飾りました。家忠、19才の時です。

 

3年後の平治の乱でも、家忠は源氏側について活躍しましたが、平清盛に敗れ、近江国まで下ります。このとき源義朝に従っていたのは、金子家忠ら二十余人でしたが、義朝の命令に従って、それぞれ関東へ落ちていきました。

彼らは、波多野義道・三浦義澄・齋藤実盛・熊谷直実・足立遠元・上総広常ら、そうそうたる武士で、その後、三浦義澄や足立遠元は、鎌倉殿13人のメンバーになりました。

金子一族はその後、日本各地に所領を得て繁栄し、小田原北条氏や豊臣秀吉に仕えるなど、名族として活躍しました。

 

金子十郎家忠陣屋跡

衣笠合戦の史跡はほとんど残っていませんが、衣笠城の近くには唯一、金子十郎家忠の陣屋跡とする史跡があります。

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横浜横須賀道路の衣笠インターの近くの三崎街道を南に500mほど行った、コンビニの敷地の片隅に、陣屋跡の存在を示す小さな石碑があります。普通は、気が付かずに通り過ぎてしまうような碑です。



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石碑には、「従是西百六十● 金子十郎家忠陣屋跡」と記されているのが読み取れます。

  • は欠けていますが、間(けん)と思われ、1間≒1.8mなので、百六十間は、約300mです。

陣屋跡は、この石碑の西側の山の中ということになります。

 

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なお、この碑の近くにあるバス停は「金子(かなご)」であり、金子家忠に由来すると思われる地名が、バス停として残っています。 



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陣屋跡は、新興住宅街の一角にあり、宅地一戸分のスペースを占めています。


この陣屋跡が作られた経緯は以下です。

 

明治期、正二位子爵まで出世した金子堅太郎という政治家がいました。堅太郎は、自分の先祖は金子十郎家忠だとし、昭和2年1月、衣笠合戦の家忠の陣屋跡を調査にきました。

山の中を歩き回り、旧跡を検分し、場所を特定しました。「金子十郎家忠陣屋跡」の碑は、金子堅太郎の書で、昭和7年に金子同族会が建立したものです。

 

その後、陣屋跡があった一帯は宅地開発のために整地され、昭和の終わりころ、現在の場所に移動することになりました。その際、金子同族会によって新たな碑も追加され、現在に至っています。

 

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ところで、写真の中に、「金子坂山中」とありますが、この金子坂とは、衣笠合戦の前の夜に城攻めのために家忠が突貫で作った道で、家忠はこの道を使って攻め上がったと言われています。

この金子坂が現在のどこに当たるのかは定かではありませんが、少なくとも昭和の初期までは、その坂道が存在していたものと思われます。

 

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金子堅太郎の書による石碑がこれです。「正二位勲一等子爵金子堅太郎」とあります。




さらに、移設の際に家忠の顕彰事業として追加した石碑がこれです。
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赤丸の部分を拡大すると蜻蛉が刻まれています。
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顕彰碑には、金子氏の家紋のひとつである「対蜻蛉(ついとんぼ)」が刻まれています。

とんぼは勇ましい虫とされ、戦国時代には好んで家紋に使われたようです。



また、移設時に追加で設置された陣地跡に関する説明碑がこちら。

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文章を見ると、「保元の乱(1156)には、源頼朝の・・・・」となっています。保元の乱のときには頼朝はまだ子供であり歴史には登場していません。つまり、説明文の1行目と9行目の間の1行がそっくり抜けていると推定されます。


三浦一族と同様、平安末期から鎌倉時代、戦国時代を通して重要な役割を果たした名族の金子氏の伝説が、三浦半島の衣笠の片隅にひっそりと残されていることに、感動を覚えずにはいられません。
ぜひ、足を運んでみてください。


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なお、金子十郎家忠の墓は、入間市木蓮寺の瑞泉院にあります。




 





 

 

2021年6月13日 (日)

三浦一族・津久井氏

文・山城ガールむつみ(三浦一族研究会幹事・三浦一族城郭保存活用会会長)


津久井館

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津久井一族の館「津久井館」の御城印が発行になりました。
津久井氏は承久の乱で、朝廷方につき、滅亡しました。
そのレポはコチラ
いざ、津久井高重 奮戦の地へ!!: 山城ガールむつみの出陣ノススメ (cocolog-nifty.com)

津久井館は三浦一族津久井氏の居館跡と伝わります。津久井は南側が海に面し、北側の山稜に向かって谷戸が形成されています。衣笠城で討ち死にを遂げた伝説の棟梁三浦大介義明の弟義行が津久井の地をもらい、「津久井」を名乗ったのが始まりとされています。

源頼朝が打倒平家のために挙兵すると、津久井氏も他の三浦一族とともに頼朝方として戦いました。その後、鎌倉に入った頼朝が上洛する際に供奉した武士の中に津久井氏の名が見え、その活躍をうかがい知ることができます。

義行、高行、義通、高重と4代にわたり、この地を領しましたが、承久3年(1221年)に起きた承久の乱では朝廷側につき、高重をはじめとする津久井一族は討たれました。これにより、この津久井の地から津久井氏は姿を消しましたが、群馬県や山梨県にその残党が逃げ落ち土着したという伝承が現地に伝わっています。

津久井氏の館があったとされる場所は、「峯屋敷」と呼ばれていて、東光寺西南の高台がそれにあたります。江戸時代に書かれた『新編相模国風土記稿』には、峯屋敷の周りには堀跡が残っていたとも記されていますが、宅地化された今となっては当時の姿を知る由もありません。

しかしながら、谷戸の最奥部にある真言宗七宝山医王院東光寺が津久井氏の歴史を今に伝えてくれます。東光寺は津久井氏の菩提寺です。寺伝によれば、奈良時代に行基が創建したといい、その後、荒廃した東光寺を津久井義行が中興し祈願所にしました。境内には、津久井一族の五輪塔が残り、津久井氏がこの地にいた当時を偲ぶことができます。

後鳥羽上皇は内裏を警備させるために、武士の中から精鋭を選び、「西面の武士」を置きました。その中に選ばれたのが、津久井高重です。御城印には西面の武士にも選ばれた津久井高重の武勇を表現すべく、馬上で弓を射る武者を描きました。

そして、三浦一族の家紋「三つ引両」を配置するとともに、津久井の北側にそびえる武山や美しい海岸線をモチーフにしました。津久井氏が祈願所とした東光寺薬師如来の光をイメージし、薬師如来の光の色である瑠璃色の雲をデザインしました。

販売場所
東光寺
神奈川県横須賀市津久井5-8-3

046-848-4512

午前9:30~16:30

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東光寺の田村ご住職と山城ガールむつみさん

2020年6月15日 (月)

三浦一族御城印帳の販売開始のお知らせ

この度、三浦一族御城印帳の販売が開始になりました。
御城印に続いて、さらなる三浦一族顕彰の一助になれば幸いです。

1冊3500円(税込み)
三浦一族御城印取り扱い店のCool Clan URAGAでお求めいただけます。

​歴×トキにて通販でも取り扱いしております。歴×トキのホームページの「通信販売」ページで詳細をご覧になってからお申込みください。
歴×トキ通信販売ページはこちらをクリックしてください。


 


表面
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江戸時代に書かれた各家の家紋紹介によると、三浦氏の家紋カラーは「黄紫紅(きむらご)」と書かれています。
それをもとに表紙は「きむらご」のカラーにしました。

表面デザインは笠懸の武士をモチーフにし、三浦一族の家紋「三引き両」を的に見立てました。
三浦一族は武芸に秀でた一族でした。吾妻鏡には笠懸の射手を務めるなどの栄誉に預かった場面がたびたび登場します。

ひよどりごえの逆落としの佐原義連のエピソードをはじめ、三浦一族は馬も弓もお得意だったのでしょう。





裏面

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三浦氏は馬術にも優れていましたが、水軍を率いる海の一族でもありました。
守護や地頭として、全国の湊を押さえ、勢力を拡大していったのです。
その一族を先導するのは妖狐「九尾の狐」です。三浦義明の殺生石伝説をモチーフにしました。
怪しげな光を放つ妖狐に導かれるように一族が全国各地に飛び出して行き、歴史上稀に見る一族へと発展していったのです。




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御城印帳は蛇腹タイプで、40ポケットです。
裏はポケットがないので、城や三浦氏と縁のある寺社の御朱印をいただいたりするのもいいと思います。
ぜひお手にとって、三浦一族の活躍に想いを馳せてみてください。

今後も三浦氏が活躍した中世をもっともっとたくさんの人に知っていただき、楽しんでいただけるよう活動していきたいと思います。







2020年4月21日 (火)

タウンニュースさんに御城印記事掲載されました!

4月17日発行のタウンニュースにて、当会の御城印の記事が掲載されました。
新型コロナの影響により、しばらくの間、郵送にて対応いたします。

郵送希望の方は
rekitoki@rekitoki.com
まで。折り返し、詳細をご連絡いたします。


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2020年4月 8日 (水)

御城印発行のお知らせ

三浦一族の素晴らしい歴史を城を通して知ってもらおうと三浦一族城郭保存活用会を立ち上げましたが、この度、御城印を発行することになりました。

地元の名族三浦氏への顕彰のため、三浦半島から全国展開して活躍した三浦一族を広く知ってほしいという思いから御城印発行を企画いたしました。地元の人に三浦氏の素晴らしさを知っていただくのはもちろんですが、全国に飛び出して活躍した三浦氏の足跡を全国に向けて発信していきたいと思っております。

「御城印」の販売は全国の城ファンに向けて絶好のアピールになると考え、さらには地元の方たちの三浦氏の功績の気付きになるのではないかと考えております。

 

御城印(ごじょういん)とは来城記念証のことで、城を訪れた人が土産として購入する商品です。
現在、全国で240城以上の御城印が発売されています。葉書サイズの用紙に、各城の揮毫、城主の名前や家紋などが描かれています。御朱印と違い、宗教的な意味はなく、記念品として自宅に飾ったり、絵葉書として利用したり、お土産として人にプレゼントすることもできます。

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衣笠城と怒田城を合わせると三浦氏の家紋になります。
浦賀城と三崎城を合わせると安宅船が出現します。
個別包装となっていて、説明文プリントも添付してあります。


販売スケジュール

御城印種類:「衣笠城」、「怒田城」、「浦賀城」、「三崎城」の4城を同時に発行

販売予定日:令和2年4月24日(金)
※新型コロナの影響で、販売日と場所が変更になる場合があります。
変更の際は当ブログでお知らせいたします。

販売価格:1枚300円(税込み)A6サイズ・説明文付き


販売場所:

新型コロナの影響を受けまして、しばらくの間、郵送対応いたします。
この機会に郵送された御城印を手に取って、おうちでお城をお楽しみください。

問い合わせ先:歴×トキ
https://www.rekitoki.com/
rekitoki@rekitoki.com 

メールいただければ、折り返しご連絡差し上げます。

※横須賀グリーンゴルフでの販売は延期となりました。

横須賀グリーンゴルフ様
https://y-sports.co.jp/ygg/

横須賀市佐原4-1300

年中無休・8:00-21:00

駐車場あり

 

Cool Clan URAGA様
https://www.facebook.com/coolclanuraga/

横須賀市浦賀1-8-3

月火木金11:00-19:00

土日祝11:00-21:00

水曜定休